Artist Reviewについて
MAD アート・プロジェクトでは、「アート」を通して、社会の今と次の姿を感じ、考える機会をつくる活動として、アーティスト、キュレーター、ギャラリストや学芸員といった美術関係者の多様な姿にフォーカスを当てた記事の発信を行っています。これを通して、美術関係者には、時には伝わりづらくもある自らの活動の内容やその意味を広く周知する機会を、読者の皆さんには新たな思索を行う機会を提供していきます。
文・大瀬友美 (MAD アートコーディネーター / キュレーター)
イントロダクション
緻密な刺繍作品で注目を集めるアーティストの青山悟さん。意図せず飛び込んだフェミニズム・アートの世界でミシンに出会い、ジェンダー、労働問題、資本主義などさまざまなテーマに取り組んできた。近年では「消えゆくもの」を切り口として、時代を記憶する表現を追及している。
本インタビューでは、1940年代に製造されたという古いミシンで現代社会を縫い取る意味、時代の変化とそれが私たち人間に与える影響、時代への向き合い方などについて考えをうかがった。
フェミニズムの世界で日本人男性がミシンを踏む意味
――もう聞かれ飽きた質問だと思いますが、まずは「なぜミシンか」というところからお聞かせください。
きっかけはやはりロンドン大学ゴールドスミスカレッジのテキスタイルアート学科に入学したことでしょうね。もともとはファインアートを志望していたのですが、確実に合格できるのはテキスタイルアートだと言われて転向しました。最初はなにもわからなかったので、とにかくどんなテクニックでも身に着けようと思って機織り、手刺繍、シルクスクリーンといろいろやってみた結果、最後に行きついたのがミシンでした。ミシンというのは社会とリンクしやすい道具なんです。女性の労働問題だけでなく、資本主義やトランプ関税だってこのミシンひとつで語れることがたくさんあります。

――フェミニズムとの関係についても質問しないわけにはいきません。伝統的に女性の仕事とされてきた裁縫をアートに取り入れ、男性中心的な価値観に抵抗するための手段としたのはフェミニストたちでしたから。
日本ではあまり意識されていないのかもしれませんが、テキスタイルアートと言えばジェンダーやフェミニズムの文脈のなかにあって、実際に学科の先生たちはウーマン・リブ1を牽引したフェミニストでした。そうとは知らずに入学してみれば、周りは女性ばかり。男子学生は自分のほかにあと1人いたけれど途中で辞めてしまいました。
そういう環境に日本人男性がいるということは、それだけで勝手に意味が出てしまうわけです。そのことに気がついて、自分がミシンを使う意味ってなんだろうと考え始めました。圧倒的マイノリティとしての立場なので、乗り越えなければならないものもたくさんあったのですが、もともとテキスタイルアートは男性中心的な価値観に抵抗するための表現、つまり何かを乗り越えるための分野ですよね。そこがうまくリンクしたんでしょう。ほかのアーティストは先に表現したいコンセプトがあって、そのために技法を選ぶのだろうけれど、自分は逆でした。まず技法があって、その後に「この技法から発せられる意味やコンセプトって何だろう」と考えたんです。
1. 1690年代から70年代にかけて行われた女性解放運動
時代の記憶媒体たりうる表現の模索
――今、私たちの目の前に制作中の作品があります。よくある住宅街の風景のように見えますが、これはどのような作品ですか。

Foundscape (2018年 東京の夕暮れ)
Foundscape (Good Evening Tokyo,2018)
2024
ポリエステルに刺繍(ポリエステル糸)
Embroidery with polyester thread on polyester organza
40.7×53.5 cm
個人蔵 / Private collection
撮影:宮島径 / Photography by MIYAJIMA Kei
©︎AOYAMA Satoru, Courtesy of Mizuma Art Gallery
この夕暮れのシリーズは、もともとデビューしたての頃に作っていたんですけれど、しばらく封印していました。なぜミシンで夕暮れなのか、当時は動機が弱かったんです。
でも最近になって、「消えゆくもの」が自分のテーマになってきました。この住宅街の風景もそうですが、消えゆくものってたくさんありますよね。スマホにたくさん記録している写真だって見返すことはほとんどなくて、そのうち記憶も曖昧になってくるし、サービスが終了したら記録ごとなくなってしまうかもしれない。風景自体も時代の流れで変わってしまいます。そういう消えゆく風景の作品に「Found Object2」ならぬ「 Foundscape」というタイトルを付けて、昔のシリーズとは違うモチベーションで作っています。
このミシン自体がもう製造停止になっていて、消えゆくものなんです。ミシンを操る職人さんの仕事も消えていきました。消えゆく道具を使って消えゆくもののモニュメントを作ろうと思っています。
2. 直訳で「発見されたもの」。生活のなかにあるものを作品に取り入れ、意味を再認識したり新たな意味を見出したりする。マルセル・デュシャンが男性用小便器をひっくり返して台座に載せた≪泉≫(1917)もfound objectの一例。青山の「Foundscape」は、平凡ゆえに見過ごされたまま消えゆく風景を再発見することを意図している。
――「モニュメント」、すなわち記念碑という言葉は印象的ですね。心に留めおく、縫い留めるという意図を感じます。一方で、消えゆくことを否定しているわけではないように思いました。
そのとおりです。「モニュメント」ということで言うと、タバコの吸い殻を刺繍した《N氏の吸い殻》(2023)はわかりやすくモニュメント化していますね。 この吸い殻は、アトリエの隣りにある町工場が閉業してしまったときに、社長さんがよくタバコを吸っていた場所で見つけました。この作品が表現しているのは町工場を守ろうとか、時代の流れに逆らおうとかということではありません。作品を見たときにその時代がわかるということ、新聞や映像とは違う記憶媒体としてアートは機能しうるか、ということを考えています。

変化するテクノロジーと人間の関係性
時代の変化に歯止めをかけたいとは思わないけれど、一方で消してはいけないものもやっぱりあると思うんです。一言で言ってしまえば、「人間性」以外の何ものでもありません。このミシンは機械と人間のちょうど両方というか、機械から漏れ出てくる人間性みたいなものを表現できる道具なのでしょうね。
ちょうど手動ミシンと全自動ミシンを比較した映像作品《The Cashiers》(2024年)があります。近所に大手スーパーマーケットができて、昔からあったスーパーがなくなってしまうという実際に起こった出来事をきっかけに制作した作品です。もともとあったスーパーは袋詰めまでしてくれるということで有名でした。店がなくなって、そこで働いていた女性たちは職を失うことになります。新しいスーパーの求人には年齢制限があるし、そもそもセルフレジだから人がいらない。こういう状況の表現として、閉店するスーパーで最後にもらったレシートを手動で、新しいスーパーで最初にもらったレシートを全自動で縫いました。その様子を映像で対比させています。
全自動で縫ったもの自体は強度のある作品になりにくいかもしれないですね。コンセプトとしては成り立つけれど、もの自体の魅力は少ないのではないかな。ピッチが固定されていて、手動のような仕上がりにはなりません。
――手動ミシンと全自動ミシンの違いとして体への負荷があると思います。手動でこれだけ緻密な刺繍をするのは根気が必要ですし、疲れも溜まりますよね。制作において身体性を意識することはありますか。
ありますね。機械を操る身体と、機械そのものから感じる振動についてはよく考えます。例えば乗り物に乗ったりするのもそうですが、展示でもドリルを使ったり、サンダーをかけたりしたりすれば身体に振動が伝わります。体験したことはないですが、戦車やマシンガンなどもきっと激しく伝わるでしょう。ミシンも常に振動を感じながらやる作業です。それから先日千葉で乗った小湊鉄道も、比喩ではなく本当にガタン、ゴトンと揺れるんですよ。普段乗っている電車はもっと静かで、それに慣れてしまっているのだと気づきました。小湊鉄道も、もうすぐなくなってしまいそうな「消えゆく」路線です。
最近のテクノロジーは振動が減って、人間の身体性とどんどん切り離されているように感じます。この変化はAIで一気に進むでしょうね。労働の疲れにしても、震える機械を扱う疲れとは別次元のものになりますから。

困難を乗り越え、立ち向かう手段としてのユーモア
――先ほど「作品を見たときに当時がわかる」というお話がありましたが、コロナ禍のときに制作したマスクの作品もそうですね。

WHO SAID SO?
2020
マスクに刺繍
Embroidery on mask
9.5×17 cm
撮影:宮島径 / Photography by MIYAJIMA Kei
©︎AOYAMA Satoru, Courtesy of Mizuma Art Gallery
困難が降りかかれば降りかかるほど制作のモチベーションが上がります。コロナのときもそうでした。マスクに刺繍した《WHO SAID SO?》(2020)は、マスクの上下が逆さになっていて、針金部分を曲げて自立させることができるんです。デュシャンが《泉》(1917)で便器を逆さにしたのに倣いました。
これを作ったのは、まだWHOがマスクはしなくていいと言っていた頃です。妻が「マスクして行きなさい」と言うので、「でもWHOはしなくていいって言ってるよ」というプロテストのつもりでこの作品を作りました(笑)。その後、WHOの言うことが二転三転したので、作品の意味も最初のモチベーションとは違うものになっていきましたが。
――あの頃は世の中が神経質になってピリピリしていましたが、そういう状況をシニカルに表現したのですね。危機をユーモアで軽やかに乗り越えるというのは、アートができることのひとつだと思います。実際の状況が変わるわけではないにしても、アーティストの機転が人の心に救いをもたらすこともあるのではないでしょうか。
ユーモラスな作品は作ろうと思って作れるわけではありませんが、今の社会でユーモアは大事だと思います。
トランプ政権になってからの世の中の変わり様はすごいですよね。新自由主義のなかで光が当たらなかった人たちにどうやって光を当てることができるのかを考えていた矢先に、まさか自国ファーストで新自由主義を終わらせようとするとは!戦争も「毒を以て毒を制す」ようなやり方で終わらせようとしています。ある意味では正しいのかもしれませんが、トランプ政権が怖いのはヘイトに結びついているところですよね。
ヘイトには立ち向かうしかないと思います。そのための有効な手段のひとつとしてユーモアがあるのではないでしょうか。それと自虐(笑)。イギリス人は自虐というか、ユーモアがすごく得意ですよね。自分の非を認める能力、自分で自分を批評する能力ということです。これから社会がどういう風に変わっていったとしても、アーティストはユーモアを忘れてはいけないと思います。

編集後記
「消えゆくもの」を年代物のミシンで刺繍する青山さんの作品は一見、懐古主義的だ。しかし、表現の対象が「消えたもの」ではなく「消えゆくもの」であることに注意を払えば、青山さんの視線は過去ではなく今まさに起こっている時代の変化、あるいは一歩先の未来に向けられていることがわかるだろう。
それなら新しい時代を直接的に表現すればよさそうなものだが青山さんは敢えて、消えゆくものからの逆照射で時代の変化とその意味を映し出そうとする。それは過去への感傷のためでも、変化自体に対する否定のためでもない。変化を無批判に受け入れ、ときに熱狂し、その代償に人間としての根源的なものを失おうとしている社会に対して批評が込められているのではないだろうか。

MAD アート・プロジェクトでは、今後もアーティストをはじめ、様々なアート関係者へのインタビューやその他の企画を通して、社会に資する活動を行っていく予定です。
