Artist Reviewについて
MAD アート・プロジェクトでは、「アート」を通して、社会の今と次の姿を感じ、考える機会をつくる活動として、アーティスト、キュレーター、ギャラリストや学芸員といった美術関係者の多様な姿にフォーカスを当てた記事の発信を行っています。これを通して、美術関係者には、時には伝わりづらくもある自らの活動の内容やその意味を広く周知する機会を、読者の皆さんには新たな思索を行う機会を提供していきます。
文・吉田広二(GALLERY SPEAK FOR)
イントロダクション
ミツバチの巣から採取する蜜蝋を画材に取り入れ、味わい深い透過層を纏った絵画や半立体作品などを発表している團上祐志さん。一方で、アーティストインレジデンスを軸にした地方創生的な実践、養蜂活動、法人向けの環境サービスなど、起業精神に富んだ実業家としての顔も持ち、それらほとんど別個に見えるカテゴリー間を共創関係に変えながら、ひとつの総合体としての世界観がアーティスティックな光彩を放っている。現代社会とどのように向き合って多彩な活動の中に身を置いているのか、その根源にある思いを聞いた。
蜜蝋をもう一度、芸術に引き戻す
― アートを志した経緯を教えてください。
美大に入る前は、哲学者か詩人になることを目指していました。しかし、無限に論理的思考をしていくことに自分は少し頼りなかった。もっと身体的、感覚的に解にたどり着きたいと。では詩人だとしても、詩人になるための大学はどこだろうと思ったり、また、言葉のセンスは本当に天性のものではないかと考えて、美大を選ぶことになりました。
今は、インスタレーション作品と詩の朗読で展示をしたりします。環境詩学の潮流が2000年代から生まれていますが、いかにポエムの中に人間ではない文法を取り入れていくか、そんなこともチェックしながらアートを制作しています。

― 自然素材である蜜蝋を用いた作品が非常に特徴的です。どう出会い、どのような動機で使い続けているのですか?
蜜蝋に出会ったのは美大在学中です。古典絵画に詳しい先生がいらっしゃって教えていただきました。先生はテンペラと油彩の混合技法を使った描き方をされていましたが、僕は、油絵も水彩系も受け入れられる不思議な流動体である蜜蝋に興味を持ち、その先生から助言いただきながら技法を確立しました。絵具としてしっかりボディがありつつ、ベールのような半透明感のある絵肌が生まれる。それが気に入っているのは間違いなくありますね。
融点が低いミツバチの巣の特徴を活かして、蜜蝋に絵具を入れ画材として描くというのは、紀元前4世紀からあるユニークなテクニックです。でも近代養蜂以前の世界では、ミイラを保存するなどの宗教的な役割を持ち、あるいは薬として王侯貴族しか取り扱えなかったので、蜜蝋は非常に入手しづらくマイナーだった。しかもすぐ固まるのでずっと溶かし続ける必要があるなど、画材として用いにくい性質でした。

鍋に入れた蜜蝋へ65度以上の熱を加えて、粉末状にすり潰した石や顔料と混ぜたものが画材となる
その課題を化学性質的に解決し、手に入りやすいものとして約800年前に確立、普及し始めたのが油絵具です。一方、蜜蝋といえば今日では考古学的な範疇に格納されていたり、宗教的な事物として語られるか、または化粧品や建築、衣類などに関するものになっていて、僕はこれがもう一度、芸術として出てくれば面白いと思っていました。ルドルフ・シュタイナー1、ヨーゼフ・ボイス2やジャスパー・ジョーンズ3など現代アートの作家たちも、エネルギーや身体性を考えながら蜜蝋を用いていますし、このコンテキストはまだ生存しているだろうと、自分の中ではいろいろと納得しています。
1. Rudolf Steiner(1861 – 1925年)は、オーストリア・クライエヴェック生まれの思想家、教育者。20代でゲーテの自然科学論や学芸誌編集に携わり、後に人智学と称する独自の精神運動を創唱。物質世界を超えた超感覚的世界に関する思想で多くの人々に影響を与えた。晩年の講義で用いたという黒板ドローイングはアートとして高く評価されている。
2. Joseph Beuys(1921 – 1986年)は、ドイツ・クレーフェルト生まれの現代美術家、彫刻家、音楽家、社会活動家。素材に対する独特な感性を発揮した彫刻、インスタレーション、ドローイングなどを制作する他、パフォーマンスアート、ハプニングなども行った。また、芸術と社会を深く関係づける思想が多くのアーティストや建築家に影響を与えた。
3. Jasper Johns(1930年生まれ)は、アメリカ・ジョージア州生まれの画家。58年にニューヨークで開いた初めての個展で、色彩を重ねた新聞紙のコラージュが蜜蝋で固められた作品「旗」を発表し注目を浴びた。アメリカにおけるネオダダやポップアートの先駆者のひとりとされている。第43回ヴェネチア・ビエンナーレ(1988年)金獅子賞などを受賞。
ポリネーションを援用して可視化する、聖なるもの
―使用したい量に対して供給は十分なのでしょうか? ミツバチが巣を作った作品もありますね。
10号ほどのサイズであれば蜜蝋を4キロぐらい、もっと大きい作品では8キロぐらい使うこともあり、年間で約100〜200キロを取り扱っていますが、欲しい量は十分に手に入ります。ミツバチの世界からすると、蜜蝋はとても大切な尊いもの。なのに、今はハチミツを採ることを目的に養蜂されている時代で、蜜蝋は産廃みたいな取り扱いです。僕のこのシリーズは、養蜂会社さんから捨てられる蜜蝋をもらってきて画材に転用する、というアップサイクル的な手段を取り入れて始めたものでもあります。
ミツバチがいなくなると、人間の食物の約5割が消えるというデータがあります。植物の受粉を司っている生き物をポリネーターと言いますが、食糧危機と環境危機の間にはポリネーター危機もあって、環境指標動物と言われるほど環境汚染に対して鋭敏なミツバチが住めるデザインにしない限り、いたずらに植物だけを増やしても環境は戻りません。ミツバチという一匹の虫が人間と自然環境をつなぐ重要なプログラムコードで、そこをどう回復するかもこの作品テーマのひとつです。ポリネーターの媒介行為に着目し、それを可視化したり賛美することもメッセージとして含んでいます。

蜂の巣を精製して作られた蜜蝋で描かれた絵画は、再び蜂の巣の中で棲家として造形されていく
―繊細な抽象画が多いですが、描いているものは何だと聞かれたら、どうお答えになりますか?
「何かの間」を描いていると思うんですけど、答えがあるようで、ないような。難しいですね。
例えば、明らかにある風景を描く場合として、赤ちゃんをモチーフにすることがあります。赤ちゃんを見た時から感じる、この子が物体でなかった時の風景を。それは彼らが現実的な形として生成する前の風景、生が到来する瞬間で、それが見えた時や感じた時を表現しているのだと思います。
「私」と「あなた」の間にある、極めて聖なるものが必要だと思っているんです。皆さん、普通に生きていて辛いと感じることがありますよね。いろいろな社会的定義やルールを勝手に当てはめられることでそうなっている。これは有用なのか、どう使うのか、そうしたレッテルによって、存在の一部を切り取られ全体性を失っている。それを思いっきり補完するものを聖なるものだと思っていて、僕はそちら側のボリュームを、ミツバチが行っているポリネーション4を援用しながら補完、具現化したいという気持ちです。もし、ここから僕が生まれてきたんだと思える絵が描ければ成功ですね。
4. 受粉。昆虫などの働きにより、植物の雄しべから生じる花粉が雌しべの柱頭に運ばれる現象。

美しいものを作る、美しいことを作る
―ご郷里の愛媛県では、アーティストインレジデンスを展開されています。
愛媛県大洲市に、江戸時代末期からある先祖の家があります。駐車場を含めて約400坪の敷地で、蔵を改装してアトリエに、母屋を民泊のゲストハウスにして7年前から運営しています。アーティストやお遍路さんは安く、その他の旅行者は高めにいただくというスタイルです。四国にはお遍路さん文化があり、そのための宿舎も必要な土地柄で、僕はそのゲストハウスは「表現者と巡礼者の経由地」だと言っているんです。
自分も含めてですが、現代アートをやる人も一度は日本の伝統文化にディップする経験が必要だと思っています。日本にはアニメもコンテンポラリーアートもあり、伝統文化もあって、現状ではそれぞれバラバラになっているのですが、全部合体して日本のアーツパワーになればすごい価値があるので、うまく縫合できるような場所を作りたいと思っているんです。
それはもちろん観光にも結びついています。大洲市はお城をホテル化して文化観光的なことを始めた最初の土地なので、一緒にまちづくりのため協働していて、周辺にある伝統的な醤油蔵や和紙工場などともうまく関係づけられる構想になっています。
うちのレジデンスでは、滞在したアーティストに作品を一点置いてもらうのではなく、ポートフォリオや作品集を寄贈してもらう仕組みにしています。すると次の作家がそれを見たり、関係人口が増えていくことになり観光地の文化ソフトもできると思っています。

「表現者と巡礼者の経由地」としている、團上さんが運営するゲストハウス
―何がその構想の起点になったのですか?
大学在学中にアメリカにいたことがあり、その時に着想しました。この資本主義や経済、世界というものがどういうものか、解像度をどうしても獲得したいと思いながら、ビジネスや起業、ソーシャルとか、そちらの方に関心が向いたのです。資本主義と対決したいという願望から、美しいものも作りたいけども、美しいことも作りたいという気持ちになりました。
人々が流入する仕組みを作るのもアートで、これは自分にとって中期的な作品だと思っています。例えば造形だったら造形ひとつを見なければいけないわけですが、茶室の空間であれば屏風もお茶も作法も全部整って、そこに鑑賞の価値が出てくる。そのような関係性の芸術というのは日本人が得意とする芸術形式のひとつですし、それに強度を持たせて世界に出すというのは、すごくいいことだと思っています。
この社会には圧倒的にアートが足りない
―今後も、アートが成しうる可能性への信頼は揺るがないでしょうか?
人類が今までこの地球という星でやってきた環境施策の70%以上は失敗しているそうです。この星の直し方は簡単で、地球の半分の土地を人間が手放せば回復するというハーフアース理論というものがありますが、人間は所有という概念を放棄できなくて、なかなか土地を手放さない。となると、経済的な知性で解決するのは難しいんですね。しかし、アートもひとつの知性で、そのパワーでしか人間を変革できない部分もかなりあるでしょう。この星をどうにかしなければ、人に優しくしなければ、と分かっているのにできないというは、ゆゆしきことで、それは社会に圧倒的にアートが足りないからという言い方もできると思うんです。聖なるもの、信仰というか、そういうものはビジネスでは作れず、アートでしか作れないと思うんですよ。
アーティストはミツバチに似ています。ミツバチはすごく環境に対して鋭敏で、社会の中で精霊的な存在です。天敵を持っておらずソーシャリティが高い。花の受粉を手伝っているだけで自分の生活を完結していて、誰も汚染していないんです。アーティストもそういう感じがするんですよね。何らかの発想によって何かを結実させていって、その結実の利益は求めていない。そういうものがいいメッセージを世界に届けている。そうじゃないアーティストもいそうですけど、自分がビジネスをやっているから、なおさらアートに対する聖域的な価値観を持っているのかも知れません。
文化とか環境とか、分かりやすいことでもなかなか経済パラダイムって動かせない。僕のアートで正しいのかは分かりませんが、僕がこういった作品を一滴落とすこと、またはクリエイティブシーンでの動き方によって、それを変えられる気がするんですよね。

編集後記
古今東西の美術史を十字に結びつけうる存在として蜜蝋を位置づけた思考と行動力だけでも称賛に値するが、廃棄されている蜜蝋にアップサイクル的な循環を持ち込みながら、アーティストの可能性をミツバチのポリネーションになぞらえて説くあたりは、感動的な説得力があった。「アートが富裕層のメランコリーみたいなマーケットになっているのでは」とも指摘し、「勝てるか勝てないかは疑問ですが、僕は作家としてはこれだと、すっきりして進んでいる」とも語っていた。実際、その思想を強く支持するコレクターや、ソーシャルな活動に協働しようとする人々も増えていると聞く。その一滴の滴がまだ世界にようやく浸透し始めたばかり。これから全方位において興味深い成果と広がりが期待できそうだ。
MAD アート・プロジェクトでは、今後もアーティストをはじめ、様々なアート関係者へのインタビューやその他の企画を通して、社会に資する活動を行っていく予定です。
